負け組の星・ハルウララブームの背景にあったもの「一生懸命やってるだけで十分やないか」【人生競馬場 第8回】
03/14 09:00

負け組の星・ハルウララブームの背景にあったもの「一生懸命やってるだけで十分やないか」【人生競馬場 第8回】
前回は、スティルインラブと佐川さんの学生時代の恋のエピソードでした。
今回は、競馬ファン以外にも知れ渡ったハルウララについて綴っています。

「負け組の星」というブームを生み出したもの
ハルウララは日本で初めて、「弱さ」によって社会現象を起こした競走馬である。この連載を読んでくださっている方の年齢層はわからないが、三、四十代より上の世代なら名前ぐらいは聞いたことがあるのではないだろうか。もちろん、勝ちきれない馬、どこか愛嬌のある馬というのはそれまでも愛されてきた例があった。たとえば有馬記念3年連続3着のナイスネイチャ、GⅠレースで2着を連発し「シルバーコレクター」の名をほしいままにしたステイゴールド、一か八かの大逃げ戦法を採り続け観衆を楽しませたツインターボ……いわば記録ではなく記憶に残る馬、という系譜は確実に存在している(ちなみにステイゴールドは引退レースで海外GⅠ香港ヴァーズを日本馬として初めて制し、種牡馬としてもゴールドシップや三冠馬オルフェーヴルを輩出するなど「記録」にも残ることとなった)。しかし、ただただ「弱い」というだけで日本中の注目を集めた馬はこのハルウララをおいて他にない。ハルウララは1998年から2006年に引退するまで実に113連敗を喫したわけだが、実は単に連敗というだけなら他にもすでに先輩がいた。浦和競馬のハクホークインという馬は161連敗しているし、グレースアンバーという馬も108連敗している。もしかするとそういった馬たちにも一定のファンはついていたのかもしれないが、社会現象となったのはハルウララだけである、と言い切っていいだろう。なぜハルウララだけが「弱さ」によって注目され、多くの人々に愛されたのか?
正直に言うと、当時の私はハルウララブームに冷ややかであった。そもそもナリタブライアンがきっかけで競馬に入っていることもあり、基本的に強い馬が好きな性質なのだ。ツインターボのような面白い馬も好きだったが、それも重賞のような大レースで勝ち負けに絡むレベルで博打を仕掛けてくるから目につくのであって、普通に負けまくっているだけの馬になぜこれほどのファンが生まれるのか、私にはあまりよく理解できていなかった。おそらくだが、いまだにハルウララ人気がよくわからない、というかつての私のような層もかなり多く存在するのではないかと思う。そこで、今回はハルウララブームが起こった経緯やその理由について考えてみたい。
ハルウララの出身地は北海道三石町の信田牧場である。日高地方にある三石町が輩出した有名馬には1984年に国産馬として初めてジャパンカップを制したカツラギエースや(ちなみに当初は国産馬が勝てなかったジャパンカップだが、近年では国産馬が勝ち続けていて、2025年ジャパンカップでアフラマズダが勝ったのが二十年ぶりの海外馬制覇として話題になった。時代は大きく変わったのである)、第六回で紹介したオグリキャップなどがおり、全国的にも有名な馬産地である。
血統の方は、父ニッポーテイオー、母ヒロイン。父のニッポーテイオーは1987年の天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、1988年の安田記念を制した名馬で、その母チヨダマサコはエリザベス女王杯を制したタレンティドガールも輩出した名牝だ。母のヒロインは中央競馬でデビューし11戦0勝。ヒロイン自身は繁殖牝馬として期待されるような成績ではなかったが、ヒロインの母ピアレスレディは中央競馬のオープン戦を勝ってGⅠレースのエリザベス女王杯に出走するほどの力を持っており、かつて信田牧場を支えた重要な一頭であった。そのピアレスレディの血が流れているという事実に陣営は賭けた。そして周囲の期待の中、ヒロインが初めて産んだ仔がハルウララだった。
しかし、ハルウララは体が小さかったためセリでも声がかからず、結局最初は生産者の信田自身が馬主となることになる。信田も大きな期待はしていなかったが、かつて信田牧場の小さな牝馬、ファイブホープがGⅠレースのオークスを勝ったことも頭をよぎり「牝馬はどこでどう化けるかわからない」という思いもあったらしい。所属厩舎は信田牧場に古くから縁のある、高知競馬の宗石厩舎に決定した。その後はすでに述べたとおり、陣営の期待空しく連敗を重ねることとなる。
このハルウララが100を超える連敗を達成できたのは(冒頭で挙げた馬の他にも100連敗越えの馬は少なくない)、競馬には出走手当というシステムがあるからである。レースに出走するだけで着順に関係なく一定金額が馬主に与えられる。高知競馬の場合、当時の出走手当は5万円、厩舎への預託料は一頭12万円で、月2回の出走でほぼ預託料がまかなえるという計算の下、ハルウララはハイペースでレースに出走することになった。この点に対して同情の声も多く上がり、一生懸命走る馬だというイメージを強くしているが、能力不足で賞金を獲得できる順位を確保できない馬に対する馬主の判断としてはそれほどおかしなものではないし、殺処分するよりはるかに温情的な措置であると言うこともできる。
ハルウララブームの発端となったのは、地元で8割のシェアを誇る高知新聞の記事だった。高知新聞社会部の石井研記者と、高知競馬の実況担当・橋口浩二アナウンサーがたまたま飲みに出かけた際に、二人は存続の危機にある高知競馬について語り合った。その中で橋口氏が「負け続けているハルウララという馬がいる」と話し、これに目をつけた石井氏がすぐに宗石厩舎に取材を申し込んだという。そして2003年6月、高知新聞の夕刊に初めてハルウララの記事が掲載された。読者の関心が高い社会面で写真を大きく掲載したことにより、ハルウララはまず地元高知の注目を集めることとなった。
高知競馬組合の吉田昌史氏はその後、負け続けるハルウララを地元だけでなく対外的にもアピールすべく、マスコミに向けて大量のニュースリリースを送付した。その努力が功を奏し、ハルウララの記事が毎日新聞朝刊に掲載されることになる(吉田氏は最初地方版に載るものと思っていたらしいが、全国版の社会部デスクが偶然競馬好きだったこともあり全国版に掲載されることになった)。さらにこの記事をフジテレビの番組「とくダネ!」の小倉智昭アナウンサーが見つけて取り上げたことで、ハルウララはついに全国的に名を知られることとなる。毎日新聞やとくダネ!の取り上げ方はまだ地方に面白い馬がいるという程度のものだったが、その後、負けても懸命に走り続けるハルウララと厳しい競争社会とを絡めた記事が東京新聞に掲載される。見出しは「リストラ時代の対抗馬」。ハルウララの「負け組の星」としての受け止められ方の基礎を築いたのは東京新聞だと言っていいだろう。
かつてはハルウララブームに冷淡だったが……
三十代以上の方なら多少記憶に残っているかと思うのだが、2000年代初頭あたりから「勝ち組」「負け組」という言葉が盛んに使われ始め、2004年には社会学者の山田昌弘氏が『希望格差社会』なる著書を出版し「格差社会」という言葉も定着、2006年には新語・流行語大賞に「勝ち組・負け組・待ち組」という言葉がノミネートされた。ちなみに、待ち組とは勝ち負けの決まる場を避けてきたフリーターやニートのことを指している。
もうかなり古びた感じがするが、私の大学時代にはこれらの言葉がかなり一般的に使われており、京都大学でデカすぎる自由の前に立ち尽くしていた私たちも「負け組」「ニート予備軍」を自認し、自虐ノリを存分に楽しませていただいた。森見登美彦氏の『太陽の塔』『四畳半神話体系』や滝本竜彦氏の『NHKにようこそ!』をバイブルとし、無職・フリーター関係のニコニコ動画やPeerCast(配信サービスの一つ)を視聴しまくるのが私の日常だった。ちなみに私は「永井先生」というフリーターのPeerCastがニコ動に転載されたものを聴きまくっていた。私はおそらく世間的には勝ち組と見られる「京大生」という立場にありながら、個人のメンタル的には完全にハルウララ側の人間として日々を過ごしていたのである。
しかし、これが私の矛盾なのだが、やはり競馬では強い馬の強い競馬が観たいし、ナリタブライアン以来ずっと一貫して強い馬が好きだった。父の影響でずっと観ていたK-1やPRIDEといった格闘技でも、私は普通にピーター・アーツやエメリヤーエンコ・ヒョードルのような強い選手が好きだったのである。自己分析するに、私は元受験ファイター、いわば「受験のプロ」として生きた経験を持っており、プロとして一つの場を選んだからには勝つべし、というヤンキー根性を育ててきてもいたのだと思う。しかし、モラトリアム期間中の私は何のプロでもなく、どんな場で勝負するかということも選んでいなかった(選ばずに済んでいた)。まさに「待ち組」批判の対象そのものなのだが、とにかく私は自分の現状を棚に上げ「プロ」に厳しい目を向けるだけの、いわば社会のゴミとして存在していたのだ。
そういうわけで、モラトリアムを存分に楽しみ自身を「負け組」と規定して恥じなかった私は、一方で「走りのプロ」であるべきハルウララの負けに冷淡だったのだと思う(まあ、勝手に走らせているのは人間なのだが)。しかし、私のようにはひねくれていない人間が世間には多く存在したのだろう、ハルウララ人気はほぼメディアの思惑どおりに爆発した。
私自身そうだった──そして今もそうである──ように、勝ち組/負け組という分け方をすれば世間には自分を負け組と考える人が多い(今では「陽キャ」「陰キャ」という分類も似たような扱われ方をしているのではないだろうか)。メディアがそこに目をつけて大衆を煽ったことは見事だったと言える。新聞からテレビに進出して人気爆発、と聞くと隔世の感があるが、二十年前にはそうしたことがまだ十分にありえた。まさかたった二十年でそれらが「オールドメディア」と呼ばれ退潮していくことになろうとは、当時の私を含めた一般大衆には想像もつかないことだった。
私のようにひねくれていないストレートな負け組意識を持つ人々に、ハルウララは熱狂的に迎えられた。自分は恵まれない環境の中で望まぬ敗北を繰り返すはめになっている、と考える人々、自分の努力でどうにもならない限界に突き当たったように感じている人々が、それでも一生懸命に生きていかねばならないという時、ハルウララは自己投影の絶好の対象となった。負けることがわかっている勝負に挑まねばならない時、ハルウララが実力上位の馬に挑む姿は自分に重ねることができる。またハルウララは標準よりも小さな馬体をしており、その体で走る女の子の姿はまさに「一生懸命」という言葉がそのまま走っているような印象を与え、実際にハルウララのレースを見た者の中には涙を流す者までいたらしい。確かに、走っても勝てないとわかると手を抜いて走るようになる馬もいるが、ハルウララは何度負けても全力で走る姿勢を崩さなかったらしく、レースで見せ場を作ることもあった。その姿はハイセイコーやオグリキャップとはまた次元の異なる感動を与えるものだったことは間違いない。ハルウララブームにおいては、ハルウララ米やハルウララ焼酎、ハルウララブラといった関連商品が次々に発売され、馬券が「当たらない」ことに引っ掛けてハルウララの単勝馬券を交通安全やリストラ回避のお守りにする人も大量発生、2005年には映画『ハルウララ』が公開され、CDや書籍も乱発された。私はあまり詳しくないのだが、大人気ゲーム「ウマ娘」に登場したことで近年新たなファンもできていたらしい。
2025年9月、ハルウララは29歳でこの世を去った(サラブレッドとしてはかなり長生きである)。現在の私は、ハルウララブームについて当時ほど冷淡ではない。いや、あれが今ならハマっていた可能性すらある。そう、プロの作家としての生活を選んだ自分を、メガヒット作は出せずとも細々と活動できている自分を、「一生懸命やってるだけで十分やないか」と、ハルウララに投影していたかもしれないのである。実際、私は一応文芸の世界に存在できているだけでいいじゃないかという思いと、「プロなら一発、でかいのをかまさないかん」という受験ファイター的な自分の思いとの間で揺れ動いている。また、何にでも冷笑的な態度を取る癖が歳とともに薄れてきた感じもある。若い頃には理解できなかったハルウララを見て泣く人間のことが、今ではかなり理解できるのだ。それが必ずしもいいことだとは言わないが、何もかも冷笑する癖があるかつての私のような人は、できる限りそこを早めに抜け出した方がいいだろう。確かに冷笑は一時的に敗北感を覆い隠してくれる魔法のようなアティチュードである。しかし何かの圧倒的な天才でもない限り、いつか人間には──ハルウララのように──情けない決定的敗北を大勢の他者にさらけ出さなければならない時が来る。その時自分の取ってきた冷笑的スタンスは、それが板についていればいるほど、自らの精神を激しく食い破り始めることになるだろう。
次回連載第9回は4/11(土)公開予定です。
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あまりの面白さに一気読み!
受験生も、かつて受験生だった人も、
みんな読むべき異形の青春記。
——森見登美彦(京大卒小説家)
最高でした。
第15章で〈非リア王〉遠藤が現役で京大を落ちた時、
思わず「ヨッシャ!」ってなりました。
——小川哲(小説家・東大卒)
ものすごくキモくて、ありえないほど懐かしい。
——ベテランち(東大医学部YouTuber)
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