田辺靖雄・九重佑三子夫妻が生誕80年を祝うコンサートを開催 テレビの創成期、森繁久彌さんの媒酌で結婚。円満の秘訣は「夫婦は一心同体にあらず」
03/20 18:00
婦人公論.jp

2026年3月20日、歌手の田辺靖雄さんと九重佑三子さん夫妻が、東京・古賀政男音楽博物館けやきホールで、生誕80年を記念した公演「80★80コンサート」を行った。九重さんの誕生日前日ということもあり、途中、お孫さん2人からのケーキのプレゼントも。軽快なトークを挟みながら、「青春時代」や「ヘイ・ポーラ」など、懐かしい昭和歌謡やカバー曲、それぞれのヒット曲などを約2時間で25曲歌いあげた。2人のなれそめからの歩みを語ったインタビューを再配信します。
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芸能界に入ったのは、二人とも同じぐらいの時期
九重 わたしたちも気がつけば後期高齢者。なんかあっという間だったわね。
田辺 この家でずっと一緒に暮らして50年。早いよね。二人が出会ったのは17歳のときだから、人生の大半を一緒に過ごしてきたことになる。
九重 私たち、いわゆる夫婦の危機ってなかったのよね。けんかもしないし…。
田辺 性格が違い過ぎてけんかにはならない。
二人が暮らす都内の住まいは、もともと田辺さんの実家。何度も手を入れて丁寧に暮らしてきたせいか、築70年とは思えないおしゃれな洋館だ。リビングルームで目を引いたのは、壁にかかる大きなお二人のツーショットの額。一見写真に見えるが実は有田焼で、窯元が何度も焼き直して完成させた作品だという。
森繁久彌さん宅にあったものと同じ、という暖炉の上にはお孫さんを含む一家の写真が何枚も並び、田辺家の歴史を物語っている。
九重 芸能界に入ったのは、二人とも同じぐらいの時期。田辺さんは、渡邊美佐さんにスカウトされたのよね。
田辺 僕の父はNHKのアナウンサーでしたが、小学生のときに亡くなってしまい、母がNHKでヘアメイクの仕事をしながら女手一つで育ててくれたんです。母は僕が少しでも元気になるようにと、児童劇団に入れてくれて。時代はちょうど安保闘争の時期でね。担任の影響もあって、中学生からデモに参加したり。『歌声喫茶ともしび』で聞こえてくるような労働歌も歌ったよ。僕ぐらい労働歌を歌える歌手はいないと思う。(笑)
いきなり「レッスンしてみない?」と言われたんです
九重 田辺さんは、高校生のころにはもう六本木で遊んでたんですって?
田辺 児童劇団の友達に誘われて行くようになりました。そのころから六本木はだんだん「ナウい」スポットになっていったからね。当時の遊び仲間は、峰岸徹さん、井上順さんなど、そうそうたるメンバーでしたね。そして自然発生的にできあがったのが「野獣会」なんです。「いずれは芸能界で活動したり、アーティストになりたい」という志を持った男女が集っていたので、「野獣」という名前の割には、実はインテリで気の弱い少年少女の集まり(笑)。そして僕は、渡辺プロダクション創業者の渡邊美佐さんにスカウトされたんです。

九重 田辺さんが野獣会で遊んでいるころ、私は体操の先生を夢見る真面目な高校生ですよ。私の父は書道家で、頑固で融通のきかない昭和のお父さん。芸能界なんてとんでもないという家庭で育ちました。
ある日、自宅の近くで「ダニー飯田とパラダイス・キング」のイベントがあって、姉二人とお手伝いに駆り出されたの。そのときに、「どうぞ」ってお茶を出したら、ダニーさんが「あれ? 声、低いね」って。それで、いきなり「レッスンしてみない?」と言われたんです。
田辺 この人は「レッスン」とか「練習」とか「努力」が大好きなんですよ。(笑)
九重 じゃあ、お願いしますって歌のレッスンに通い始めて3ヵ月目に、「明日は池袋のライブステージでお客さんの前で歌うよ」と。いきなり「ダニー飯田とパラダイス・キング」の一員としてデビューすることに。
当然父は大反対ですから、ダニーさんが「僕が責任をもってお嬢さんを守ります」と約束して、私には「とにかく現場では、誰とも口をきいちゃいけないよ」とアドバイスしてくれました。私は真面目ですから当然守ります(笑)。だからデビューしてから、歌番組に毎日のように出ていたけれど、誰とも口をきかなかったんです。田辺さんと初めて会ったのはフジテレビのスタジオだったわね。ダニーさんから「あいつなら口をきいてもいい」ってお許しが出て、同じ学年の田辺さんを紹介してくれたんです。
最初から夢中になっちゃいました
田辺 最初に会ったとき、彼女は無愛想で。変わった子だなと思いましたね。
九重 そういうふうにしろって言われてたから。
田辺 でもね、僕、変わった子がタイプだったんですよ。だから最初から夢中になっちゃいました。これが僕の人生の分かれ道。(笑)
九重 そのころは、番組のリハーサルと本番で、毎日のように会うんですよ。
年も近いから話しやすくて、私はけっこう頼りにしていました。
田辺 森繁久彌さんのドラマでも一緒になって、二人で父親役の森繁さんを「おとうさん」と呼ぶようになった。
九重 私たちが森繁さんの子ども、兄と妹の役だったんです。「ねえねえ、田辺さん、こんな時、男の人ならどう考えるの?」なんて演技の相談もしていました。
田辺さんは、梓みちよさんとのデュエット曲「ヘイ・ポーラ」が大ヒット。俳優業にも幅を広げ、芸能界での確固たる地位を獲得。佑三子さんも、主演ドラマの『コメットさん』が一世を風靡し、自宅の前にもファンが待っているほどお茶の間の人気者になっていた。
田辺 僕たちは二人とも東京の出身で、いつのまにかデビューしていつのまにかテレビに出るようになっていた。地方から出てきて「故郷に錦を飾るぞ」というハングリー精神もない。特に僕はもともとガツガツと仕事をするタイプではないので、いつも周りから「やっちんはやる気があるのかい?」なんて言われてましたね。
「少し間をあけましょう」
九重 私は、毎日とにかく忙しくて忙しくて、いつもスケジュールに追われていました。一生懸命目の前のことをこなすだけで精一杯。スタジオでは生放送なのに、渥美清さんがカメラに映らないところから笑わせにきたりして。そしたらセリフがぽーんと飛んじゃったり。
田辺 確かに、テレビ創世記は出演者もスタッフも家族的で、アットホームな雰囲気だったね。
九重 だから特別に誰かと付き合うという感覚なんてまったくなかったんです。
休みにお互いの家に行くようにはなって。気が付いたら田辺さんの部屋の天井に私のポスターが貼ってあるんですよ(笑)。ベッドに寝ながら眺めてたのね。
田辺 だからどうこうしようってわけじゃないんですよ。ただ、好きだと思っていただけ。かわいいもんでしょ?(笑)
九重 それでも毎日のように顔を合わせているし、いつも一緒にいるもんだから、周りからは「あの二人はいずれ結婚するんだろう」という目で見られるようになっちゃってね。おとうさん(森繫久彌さん)にも「お前たちはいずれ一緒になるんだ」と言われ続けてました。
田辺 ところが、ですよ! なんとなく機が熟してきたと周りが感じ始めたころ、いきなり僕が一方的にふられたんです。「少し間をあけましょう」って。
なんてこともなく隣にまたいられました
九重 20代になってこのままいけば結婚してしまいそうになっていたけど、これが本当に恋愛なの?って疑問に感じてしまって…。だってデートもしたことがないんですよ! 会うのはスタジオかどちらかの家。恋愛が何かもわかっていなくて、お尻の青い者同士が一緒になっても、そのうちうまくいかなくなるような気がしたんです。いったん距離をおいて、広い世界を見たかった。
田辺 こっちは青天の霹靂ですよ。周りにも認められ、世田谷のこの家から上野のこの人の実家にもしょっちゅう行ってたのに…。
九重 そうそう。私が過労で倒れると、いつも私は「田辺さん呼んで!」と家族に言ってた。

田辺 そのたびに世田谷から上野ですよ。(笑)
九重 歩けない私を抱えてトイレに連れていき、トイレットペーパーを巻いて渡してくれて。ドアを閉めて「ここで待ってるからね」と。
田辺 それがいきなり「別れましょう」ですよ。「悪魔のように冷たい女」だと思いました。(笑)
九重 そうやって、距離をおいてから4年ぐらい経ったころ、万博がらみのイベントの話があったんです。台本を見たら「田辺靖雄」って書いてある。それを見たとき「ドッキーン」として…。会える、田辺さんに会える、って興奮している自分にびっくりでした。なんだろう、この気持ちって…。
田辺 久しぶりの再会は覚えてるよ。ドラマチックなんてとんでもない。お互いに昨日の続きみたいに「オス!」って軽く挨拶しただけ。
九重 空白があったことが信じられないぐらい、なんてこともなく隣にまたいられました。
田辺 会ってない時期、僕もいろいろあったけど長続きしなかった。ここで彼女と付き合いが始まったらいよいよ次は結婚だと、ようやく意識することができたんです。やっぱり二人にとって、この空白期間は必要だったのかもしれないと今なら思えますが、とにかくふりまわされっぱなしですよ。そのたびにやせたり太ったり…(笑)。もうふりまわされない自信ができたから、結婚しようと。