『虎に翼』寅子モデル・嘉子は名古屋地裁へ転勤。「女性初の判事」になったものの、裁判所には女性を歓迎しない空気が…

(写真提供:Photo AC)
24年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』。伊藤沙莉さん演じる主人公・猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんです。先駆者であり続けた彼女が人生を賭けて成し遂げようとしたこととは?当連載にて東京理科大学・神野潔先生がその生涯を辿ります。先生いわく「嘉子は裁判所の外でも、さらに積極的に活動するようになった」そうで――。

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息子の面倒を弟の妻に見てもらいながら<女性法曹のパイオニア>として飛躍した『虎に翼』モデル・嘉子。ただし特段「女性の問題」に熱心だったわけではなく…

司法をめぐる大きな制度の変更

1952(昭和27)年12月に、嘉子は「女性初」の判事となり、名古屋地裁へ転勤になりました。

ところで、嘉子の名古屋での活躍と新しい生活とについて触れる前に、三つほど補足しておきたいと思います。

一つ目は、戦後に行われた、司法をめぐる大きな制度の変更についてです。

戦前は、司法権を担う裁判所の司法行政(司法権を行うために必要な、裁判所の設置、裁判官や職員の人事、会計などの行政作用)については、司法省が担当していました。

これに対して、戦後の日本国憲法のもとでは、裁判所は完全に司法省(1948年に法務庁となり、法務府を経て、1952年からは法務省)から独立して、裁判官の人事(任地の決定、任務の決定など)は最高裁判所が行うことに変わりました(ただし、任命は内閣が行います。また、検察官については、法務大臣が人事権を持っています)。

嘉子のこの人事も、戦後の新しい制度のもとで行われたものでした。

二つ目は、女性裁判官の状況についてです。

嘉子以降、女性裁判官が毎年一、二名誕生しており、当初は全て東京に配属となっていました。

やがて、東京以外の裁判所にも女性裁判官の配置が検討されていきますが、女性裁判官を「扱いにくい」と考える裁判所も多く、特に規模が小さく裁判官の人数も少ない裁判所では、女性を歓迎しない空気があったようです。

女性裁判官の側はなんとも思わない事件の内容でも、男性裁判官の側が女性裁判官には任せづらいと考えて、「特別扱い」してしまうということも多くありました。

女性裁判官の転勤と任用

三つ目は、女性裁判官の転勤と任用についてです。

全国の裁判所のレベルをある程度同等に維持するためには、優秀な裁判官がきちんと地方にも配置される必要があります。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

嘉子が名古屋に移った頃には、裁判官(特に判事補)はだいたい3年程度で転勤になる仕組みができあがりつつありました。

問題は、まだ数少なかったとはいえ、結婚している女性裁判官の場合です。

転勤によって家族と別居する可能性も出てきてしまうわけですが、最高裁判所は、女性裁判官を特別扱いすることへの批判を受けて、平等に転勤させるようになり、女性裁判官の側もこれを受け入れていました。

しかし、やがてこの転勤を受け入れられる女性だけが、裁判官への任官を希望することが現実になり、1950年代後半には、転勤を命じる際に多様な家庭的配慮を考えなければいけない女性裁判官をそもそも採用したくないと考える傾向が、最高裁判所の中にかなり強く現れてきたようです。

1958年2月には、日本婦人法律家協会会長の久米愛の名前で、当時の最高裁判所長官田中耕太郎と法務大臣唐澤俊樹に宛てて要望書が提出されましたが、そこには、「法務省では二、三年前より女子の検察官を採用しないことに内定し、裁判所でも次第にこれを制限する方針であるという声をきくようになりました。憲法の番人である裁判所や法務省が職員の採用にあたり性別による差別をされるとは到底信じられません。これは司法部内の一部反動的な人々の個人的発言から生じた風説にすぎないとは思いますが、女子修習生がかかる風説に動揺を受け、任官志望につき消極的態度を余儀なくされている事実を見逃すことはできません」と記されています。

この問題は、ずっと後の1970年頃にも再燃しますが、長い年月と困難を乗り越えて、徐々に解消されていきました。

名古屋での生活(判事として)

嘉子の職場であった名古屋地方裁判所は、名古屋市市政資料館として現在もその姿を残しています。

1922(大正11)年に当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設されたこの建物は、戦後は名古屋高等裁判所・地方裁判所として、1979(昭和54)年まで使われていました(二つの裁判所は、1979年に現在の中区三の丸1丁目に移転しました)。

(写真提供:Photo AC)

嘉子が勤務した頃は、現在の市政資料館(当時は本館と呼びました)を取り囲むように、別館などの建物が多く建っていました。

嘉子の勤務した民事部の判事室は、主に本館の2階にありました。

嘉子は、判事としてのスタートを切ると同時に、裁判所の外でも、以前よりもさらに積極的に活動するようになりました。

名古屋市教育委員会の社会教育委員(社会教育に関して計画立案・調査研究を行い、教育委員会に助言する委員)を引き受けたり、各婦人団体の講演会に積極的に講師として出かけたり、名古屋大学の女子学生たちが、自立したプロフェッショナルとしての生き方を目指して結成した「女子学生の会」にアドバイスしたりもしていました。

この「女子学生の会」の中には、後に弁護士・参議院議員として活躍する大脇雅子もいました。

また、嘉子は、徳島から名古屋に赴任してきた永石泰子判事補を連れて、いろいろなところへ出かけたようです。

泰子は1943年に明大女子部法科を卒業し、戦後に共学化した中央大学で学んだ最初の女子学生の一人で、法学部に在学中の1948年に司法試験に合格し、1951年に裁判官となった、注目される女性法曹の一人でした(なお、当時は女性法曹とは言わずに、「婦人法曹」と言うことが多かったようです)。

「パイオニア」としての姿

仕事においては、嘉子は強い信念の人でした。

論争の際には、対立する意見などについて徹底的に追及する激しさがあったようです。

一方で、同僚であれ部下であれ、相手の言い分をよく聞く寛大さもあり、納得できればそれに従う柔軟性も持っていました。

この頃の嘉子は、なにごとも相談して会議で丁寧にことを進めたいという意識が強かったということですが、それは審理の仕方や判決書などに厳格だった近藤完爾裁判長のもとで学んだことが大きかったのかもしれません。

この頃には、明大女子部で嘉子から教えを受けたり、嘉子を憧れの存在と考えたりして裁判官になったという女性たちが、だんだんと増えてきていました。

そのような女性法曹の一人であった鎌田千恵子は、1955年の春に判事補となって松山に赴任する際、名古屋で途中下車して嘉子の官舎を訪ね、「しっかり頑張んなさいよ」と励まされたと言います。

「パイオニア」としての嘉子の姿が、次の世代にもプラスの影響を与えていました。

※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

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