“廃線跡”の素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない

消えた貨物鉄道の痕跡」

北海道電力江別火力発電所専用線跡地に残された石炭車。筆者撮影(画像:櫛田泉)

北海道電力江別火力発電所専用線跡地に残された石炭車。筆者撮影(画像:櫛田泉)

 国鉄時代末期の1980年代まで、日本には国鉄駅から工場などに向かう貨物専用鉄道が分岐する駅や、地方の私鉄路線に接続する駅が数多くあった。

 これらの貨物専用鉄道のほとんどは、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化までに姿を消し、地方私鉄路線の多くも1970年代以降、日本の高度経済成長にともなうモータリゼーションの波に飲み込まれ、鉄道としての役割を終えて廃線となった。

 その痕跡は今でも地図上ではっきりと確認できるものが多く、筆者(櫛田泉、経済ジャーナリスト)は日本各地を旅する際、そうしたかつての鉄道の痕跡を探すのを楽しみにしている。

 ということで、本稿では、筆者が廃線跡を「やばい!」と思う四つのポイントについて解説する。

やばいポイント1「怪しげなカーブ」

線路沿いの道路に何かを避けるような怪しげなカーブがある(画像:OpenStreetMap)

線路沿いの道路に何かを避けるような怪しげなカーブがある(画像:OpenStreetMap)

 北海道札幌市に隣接する江別市は、現在は市内を東西に貫く函館本線の1路線しかない。しかし、野幌(のっぽろ)駅からは1975(昭和50)年まで夕張市の夕張本町駅を結ぶ夕張鉄道線が分岐しており、さらに夕張鉄道の北海鋼機前駅から分岐していた北海鋼機専用鉄道も国鉄末期の1987年まで運行されていた。

 さらに江別駅からも1986年まで王子製紙江別工場専用線が、JR化後の1989年まで北海道電力江別火力発電所専用線が分岐しており貨物列車の運行が行われていた。

 画像は現在の野幌駅周辺を表した地図であるが、「鉄東線」と書かれた線路と並行した道路は野幌駅を過ぎると何かを避けるように線路から離れ、また線路脇に戻るという怪しげなカーブを描いている。

 この場所には、現在はマンションなどが建っているが、もともとは夕張鉄道の蒸気機関車の駐泊施設などがあった鉄道用地で、鉄東線はこうした鉄道用地を避けて道路が建設された名残である。

 さらに鉄東線からは不自然な角度で「ふるさと農道 江南通り(通称:きらら街道)」という道路がわかれているが、この道路は夕張鉄道線の廃線跡を転用して建設したものである。

やばいポイント2「遺構発見時のテンション」

夕張鉄道線の廃線跡がそのまま転用された栗山町内の道路。筆者撮影(画像:櫛田泉)

夕張鉄道線の廃線跡がそのまま転用された栗山町内の道路。筆者撮影(画像:櫛田泉)

「きらら街道」は、野幌駅付近から夕張鉄道の旧北長沼駅の少し先までの廃線跡がそのまま道路に転用された。夕張鉄道線と国鉄室蘭本線との接続駅であった栗山駅周辺の廃線跡は農地などへの転用によりほとんどが消失してしまっているが、栗山町内の角田地区では廃線跡が単線路線の幅でそのまま道路に転用されていることから、ここが明らかな鉄道廃線跡であると一目見ただけですぐに判別することができる。

 現在、札幌市と夕張市を結ぶ唯一のバス路線となってしまった北海道中央バスの高速ゆうばり号は2024年9月末をもって廃止となる見通しであるが、このバスに乗るとこの夕張鉄道の廃線跡を跨線橋で超えるところがあり、バスの車窓から夕張方面に向かって一直線に向かって伸びる細道を見ると、かつてここには石炭を満載したたくさんの貨車を連結した蒸気機関車けん引による貨物列車がひっきりなしに走っていたという夕張の最盛期に思いをはせることができる。

 夕張鉄道線は夕張峠を、島根県の木次線の出雲坂根駅にあるような三段スイッチバックにより超えており、かつてはスイッチバックのあった夕張鉄道の錦沢駅を含む夕張市内の廃線跡はサイクリングロードとして整備されていたが残念ながら現在ではこのサイクリングロードも廃道となってしまっている。

 夕張鉄道線の終着駅であった夕張本町駅の駅舎は夕張市民会館と一体化した建物として1963(昭和38)年に完成した。夕張市役所に隣接した夕張市民会館は、現在は閉鎖され廃墟となってしまっているが、建物自体は現存している。夕張市民会館と夕張市役所の裏手には微妙な空き地が広がっており、ここがかつて線路だった場所だと思うとさらにテンションが上がる。

やばいポイント3「モニュメントからわかる様子」

1920(大正9)年の夕張駅。筆者撮影(画像:櫛田泉)

1920(大正9)年の夕張駅。筆者撮影(画像:櫛田泉)

 夕張市民会館からさらに夕張の奥を目指すとそこには、広大な荒地が現れる。ここは北炭夕張炭鉱の跡地を活用して1977(昭和52)年に開業した「石炭の歴史村」の駐車場跡地で、1985年まではここに初代国鉄夕張駅があった。駐車場跡地への入り口付近には大正時代の夕張駅の写真を印刷した横断幕が張られており石炭産業に沸く当時の夕張駅の様子をしのぶことができた。

 国鉄夕張駅は北炭夕張炭鉱の閉山にともなって出炭機能を停止したことから1985年に夕張鉄道の夕張本町駅のあった市民会館裏に移転。さらにJR化後の1990(平成2)年にはホテルマウントレースイ前に2度目の移転を行い、2019年に当時の鈴木直道市長の石勝線夕張支線の「攻めの廃線」によりJR夕張駅は廃止された。

 夕張鉄道が函館本線から分岐していた江別市側の北海道電力江別火力発電所では発電に石炭が用いられており、江別駅と発電所の間では貨物列車による石炭のピストン輸送が行われていた。

 専用線末期には三井芦別炭鉱の石炭が発電に使われており、三井芦別鉄道の頼城駅から石炭輸送が行われていたが、1989年の三井芦別鉄道の廃止にともなって専用線も運行を休止。その後、発電所は老朽化により1991年に専用線とともに廃止された。

 江別火力発電所はドーム屋根の屋内貯炭場が特長であったが1992年に発破解体され、1996年に発電所跡地には札幌市豊平区里塚から北海道電力総合研修所が移転した。発電所への専用鉄道の跡地は、現在は四季の道という遊歩道となっており、その途中には当時活躍していたロッド式のディーゼル機関車と石炭車がそれぞれ1両ずつ静態保存されている。

やばいポイント4「鉄道の復活を妄想」

国道12号線にはかつての鉄道用地を避けるための怪しげなS字カーブがある。筆者撮影(画像:櫛田泉)

国道12号線にはかつての鉄道用地を避けるための怪しげなS字カーブがある。筆者撮影(画像:櫛田泉)

 江別市内には、このほかに江別駅と王子製紙江別工場(現・王子エフテックス江別工場)を結ぶ専用線も国鉄末期の1986(昭和61)年まで運行されていた。王子製紙江別工場専用線の跡地は、線路が剥がされた以外はほぼ手つかずの状態で残されており、江別市内の国道12号線には当時の鉄道用地を回避するための不自然なS字カーブも存在する。

 国鉄末期の1980年代は、相次ぐ労使紛争により荷主の信頼を失った国鉄貨物は、トラック物流にシェアを奪われ衰退の一途をたどっていったが、令和の時代ではトラックドライバー不足やバスドライバー不足の問題が表面化している。

 国鉄末期の1980年代には貨物専用鉄道はトラック輸送への転換で廃止が進み、旅客鉄道もモータリゼーションの進展にともなう利用者の減少などを理由に特に地方部ではかなりの廃止が進んだ。

 しかし、時代は令和となりトラックドライバー不足やバスドライバー不足の問題が表面化。トラックで運べる輸送量は2030年度時点で2023年の30%減少するとする試算結果もあることから、国土交通省は2033年頃までに鉄道貨物の輸送量を倍増させる方針をとっている。

 こうしたことから、今後はこうした専用線の復活もあるのではないかということを筆者は個人的には期待をしている。

 王子エフテックス江別工場への廃線跡は、線路が剥がされた以外はほぼ手つかずの空き地として残されているところが多く、線路を敷きなおそうとすれば物理的に不可能ではなさそうな状況だ。

 国土交通省の鉄道貨物の輸送量倍増という方針の下で、今後、全国各地にあったこうした専用鉄道の復活を妄想するものまた楽しい。

交通夢語りの重要性

1962(昭和37)年の王子製紙(当時は北日本製紙)江別工場専用線(画像:江別市郷土資料館)

1962(昭和37)年の王子製紙(当時は北日本製紙)江別工場専用線(画像:江別市郷土資料館)

 現在のSNS上では、誰もが現実の諸問題に縛られ過ぎで、こうした交通に対する夢を語りにくい風潮があるのが現実だ。

 しかし、こうした理想を語ることができる環境を作っていくことが社会をより良い方向に進ませるひとつの要因となるのではないだろうか。

 廃線跡の素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない。皆さんが感じる“やばさ”があったらぜひ聞かせてほしい。

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