なぜスポーツカーは「チー牛の車」と嘲笑されるのか? ネットスラングの偏見、自動車文化衰退の危機! 「似合わない」と嗤うのは誰?
04/19 08:51
見た目で測られる所有者像
インターネット上では長らく、「スポーツカー = “チー牛”ご用達」という短絡的な言説がはびこってきた。「チー牛カー」なる言葉まで存在する。ここでいう「チー牛」とは、牛丼チェーンで「チーズ牛丼の特盛・温玉付き」を注文しそうな見た目の若者、というネットスラングに由来する。
一般的には、
・痩せ型でメガネ
・無口そうな風貌
・地味な服装
・冴えない表情
を特徴とされ、ネット文化においてはオタク的気質と結びつけて語られることが多い。
このスラングが広まったのは、単なる容姿の揶揄ではなく、自信がないのにこだわりだけは強そうという、ある種の性格像までをも一括りに嘲笑の対象としたことにある。いい換えれば、
「社会的に承認されづらい人物が、自分の趣味や嗜好を誇示している」
という構図が、匿名的なネット空間で格好のからかいネタとして消費されているのだ。
こうしたチー牛という記号は、ネット世代におけるある種の「弱者男性」の象徴でもある。恋愛や社交、外見といった文化資本を持たないとされる若者像が、趣味への課金や自己表現を通じて存在感を示すことに対して、
「身の程をわきまえろ」
といわんばかりの抑圧的な空気が形成されている。このようなレッテルがなぜスポーツカーという車種に貼り付けられるのか。そこには、目立つ存在への注目と反動、そして文化的無理解が交錯しているのではないか。
スポーツカーというジャンルは、単なる交通手段ではなく、自己表現や憧れ、個性の象徴としての側面が強い。だが、その目立つ存在に対して
「見た目が釣り合っていない」
と評価する文化は、乗る人間の自由な選択を萎縮させる。本来、誰がどんな車に乗ろうと自由であるべきはずなのに、ネット空間では似合う・似合わないという価値判断が先行しやすい。
視線を集める代償
スポーツカーはその性質上、存在感が強い。
・車高は低く
・フォルムは流線型
・加速は鋭く
・カラーリングも派手
なものが多い。加えて、走行中のサウンドやマフラー音など、街中において目立つ要素が揃っている。逆にいえば、街を流していると視線を集めやすい乗り物でもある。
その車に誰が乗っているか、という点も注目の対象になる。もしそこに、見た目に自信がなさそうな若者が乗っていたとすれば、どうなるか。注目される車に似合っていない人間が乗っているというだけで、冷笑の対象となり、晒されることもある。
この現象は、他の車種では起きにくい。たとえば、コンパクトカーや軽自動車に冴えない若者が乗っていても、わざわざ揶揄してネットに投稿することは少ない。つまり、目立たない車には乗り手の評価も集まらないのだ。
若年層回帰が示す再評価
スポーツカーのユーザー層は果たして本当に限られているのか。現実のデータを見ると、決してそんなことはない。たとえば、GR86、スープラ、フェアレディZ、シビックタイプRなど、20~30代の購入者が顕著に増えているといわれている。
とりわけSNSや動画配信文化との相性のよさもあり、スポーツカーは若年層の憧れとして再評価されている。一方で、1990年代のスポーツカー黄金期を知る40~50代のリターンユーザーも多い。つまり、チー牛的なキャラクターに限定された市場ではない。実際のユーザー層は、社会人歴の長い中年層から、クルマ趣味に目覚めたばかりの若者まで幅広い。
にもかかわらず、チー牛ご用達というような表現が広まる背景には、目立つ存在を嘲笑することで、自分の位置を確保しようとするネット特有の文化がある。
似合うか否かを裁く風潮
スポーツカーが特異なのは、車のイメージと乗る人間のイメージとのギャップが過剰に取り沙汰される点にある。スポーツカーに対しては、なぜか
・細身でスタイリッシュな若者
・ドライビングテクニックに長けた人物
といった無言の理想像が存在している。この幻想と現実とのギャップが嘲笑の対象になる。仮にその車に乗る人が、ぽっちゃり体型で、アニメグッズを飾っていたとしたら、SNSでは
「痛車」
「オタクの無駄遣い」
といった言葉が飛び交う。だが、これがSUVやミニバンならどうだろうか。大型のアウトドア車に乗りながら、キャンプにも登山にも行かない人は山ほどいる。それを批判する声はほとんど聞かれない。似合っているかどうかなど問われない。
つまり、スポーツカーが乗る資格を問われるジャンルになってしまっているのだ。この構造自体がきわめて特殊である。
若年層に広がる購入忌避
車は本来、単なる移動手段であると同時に、趣味や自己表現の手段でもある。なかでもスポーツカーは、速さや走行感覚、美しさを追求するカテゴリーだ。実用性ではなく、「好きだから選ぶ」が成立する領域といえる。
しかしこの好きだから買ったというシンプルな動機が、
「似合わないくせに無理をしている」
といった揶揄に変わる社会は、あまりに寛容性に欠けている。このような空気が広がれば、車文化全体の自由度が損なわれる。もし、他人の目や評価を気にして車を選ぶ時代が到来すれば、車は
「スペック表とコストパフォーマンス表」
の対象へと変質する。選択の動機から個性や憧れが失われていく。近年では、YouTubeなどで車文化を冷笑の対象に貶める動きも見られる。こうした言動は新しい購買層を引きつけるどころか、むしろ遠ざけてしまうリスクを孕んでいる。
その結果、「車に乗ってみたいが、どう見られるかが怖い」と考える若者が増えていけば、自動車の販売台数そのものの減少にもつながりかねない。軽率な冗談が、産業全体の足を引っ張るという皮肉が、いま現実のものとなりつつある。
車文化を破壊する偏見
確かにスポーツカーは目立つ。これは否定できない。だが、目立つからこそ乗り手に注目が集まり、ときに過剰な期待や揶揄の対象にもなる。しかし、それは車本来の価値とは無関係だ。
本来、クルマは似合うかどうかではなく、好きかどうかで選ぶものだ。他人の偏見を恐れて、自分の欲求を押し殺すような社会は健全とはいえない。
クルマは本来、自分の人生の速度や方向を、自ら決めるための道具である。そこに、他人の評価は必要ない。