なぜ目黒駅は「品川区」にあるのか? 地元の“猛反対説”は本当か
08/30 20:51
目黒駅の所在地の謎
目黒駅は東京都目黒区にあると思われがちだが、実際には品川区上大崎に位置する。
目黒駅は1885(明治18)年、日本鉄道品川線(現・山手線)の駅として開業した。日本鉄道自体は1883年に上野~熊谷間で開通しており、新橋~横浜間の東海道線とは別ルートであった。当時、新橋~上野間には多くの家屋があり、土地買収が難航していたためである。しかし、日本鉄道には鉄道を南に延ばす明確な理由があった。
北関東に広がる生糸の生産地から横浜港へ輸出するためである。当時の日本経済にとって、生糸は重要な外貨獲得資源だった。そこで人口の少ないルートを選び、赤羽から分岐する鉄道が建設され、現在の埼京線から山手線につながる原型ができた。当初開業した駅は
・板橋
・目白
・新宿
・渋谷
・目黒
・品川
の6駅で、その後、田端~池袋間が開通した。
設置の舞台裏
目黒駅は当初、目黒区内に設置される予定だった。品川から目黒まで目黒川沿いに線路を敷く計画であったが、地元農民の強い反対に遭った。汽車の煙や振動が農作物に悪影響を与えると農民たちは懸念し、のぼりを立ててねじり鉢巻きで抗議した。この運動により駅は目黒川から離れた権之助坂の上(現在の品川区)に建設されることとなった。この経緯は
「目黒駅追上事件」
と呼ばれる。「追上」とは坂の上に追い上げたことを意味する。
なぜ、目黒駅追上事件は強硬な運動になったと伝えられるのか。目黒区発行の『月刊めぐろ』連載「歴史を尋ねて」では、こう記されている。
「事件の真偽は、資料がないので定かではないが、目黒駅が権之助坂上に変更されたことで、目黒が近代化への最初のきっかけを逸したことは否定できない」
この事件は、目黒駅が品川区にある理由として、地元で長く語り継がれてきた。しかし、運動の存在を裏付ける証言も資料も一切ない。結局、この伝説は事実かどうかもわからないまま残されている。
伝説の真相
目黒駅追上事件が歴史的事実ではないと考えられるようになったのは、21世紀に入ってからだ。きっかけは2006(平成18)年刊行の地理学者・青木栄一の著書『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文館)である。
鉄道忌避伝説とは、鉄道創成期に全国各地で語られ始めた俗説だ。住民が線路を市街地に通すことに反対したため、駅や線路が町の中心から離れた場所に置かれたとされる。地誌や市町村史にはしばしば記録されているが、当時の新聞や住民の日記を調べると、大規模な反対運動の証拠はほとんど見つからない。
研究者は、ほとんどの線路は技術的・経済的理由で計画され、住民の影響は駅位置の微調整にとどまったと指摘する。反対運動がルート変更の直接原因になった例は極めてまれで、伝説として語られる場合がほとんどだ。
青木の著書は、駅と繁華街が離れている理由として語られる「地元住民の反対」を検証したものである。研究の結果、鉄道反対運動があったとされる地域に資料はほとんど存在せず、多くの鉄道忌避伝説は俗説にすぎないと判断された。では、目黒駅追上事件も同様に俗説だったのか。もし駅が住民の反対で移設されたのであれば、何らかの資料が残るはずである。
『目黒の近代史を古老にきく2』(目黒区守屋教育会館、1985年)にわずかに記述が見られる。1983(昭和58)年開催の座談会記録では、当時70歳以上の地元住民は地主の反対を「子供の頃に聞いた話」として伝聞する程度で、実際に見聞きした証言はなかった。日本鉄道の建設ルートには多少の変更はあったものの、工事は計画通り進められたと考えられる。
区端駅が生んだ街
では、なぜ鉄道忌避伝説は生まれたのか。その背景には、後世になって「鉄道が目黒区の中心を通っていれば、区はもっと繁栄したのではないか」という考えが生まれたことがある。
前述の「歴史を尋ねて」にはこう記されている。
「明治、大正期に開通した鉄道は、いずれも区の端を通るものであり、その恩恵を受ける人びとも限られていた。目黒の真ん中を通る鉄道を待つ声が出るのは、当然の成り行きであった」
と。目黒区は1932(昭和7)年10月に成立した。目黒町と碑衾(ひぶすま)町が合併したもので、区役所は当初、目黒区中央町2-4-18に設置された。2003(平成15)年、中目黒駅から徒歩5分の現在地に移転するまで、長らくここにあった。
区民にとって、区役所は中央にあるのに鉄道駅は区の端にあるのは不便だった。目黒区誕生時点で、東急東横線(1926年開業)と東急目黒線(1923年開業)はすでに存在していた。
交通の便は悪くなかったが、「山手線が区の中心を通っていればさらに便利」と考える人々が現れ、「なぜ目黒駅はあんな場所にあるのか」という疑問が伝説を生んだのだろう。
目黒駅伝説と事実の境
都心と郊外の空気が混じる目黒区の個性は、山手線が区の端にあり、東急線やバス路線が広くカバーする構造から生まれた。
結果として、東京でも人気の街が形成され、目黒駅が区の端に設置されたことは、むしろ幸運だったといえる。
結論として、目黒駅が品川区に設置されたのは、必ずしも住民の強硬な反対運動によるものではなく、当時の技術的・経済的条件や輸送効率、土地利用の事情が影響していたと考えられる。
伝説は後世の推測や区民の感覚によって膨らんだものであり、事実と伝説を分けて理解することが重要である。こうした経緯を知ることで、「目黒駅はなぜ品川区にあるのか」という疑問にも納得の答えが見えてくる。