米津玄師「Lemon」の制作背景にあった<祖父の死>。「人を優しく包み込むような懐の広さがまったく持てなくて…」異例のロングヒット曲の裏側とは

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
2025年9月にリリースされた米津玄師さんの「IRIS OUT」が、米ビルボードのグローバルチャート「Global 200」で、日本語楽曲として史上最高位となる5位を記録しました。日本のアーティストが続々と海外に進出していますが、なぜ日本の音楽は世界に届くようになったのでしょうか。そこで今回は、音楽ジャーナリスト・柴那典さんの著書『ヒットの復権』より一部を抜粋してお届けします。

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【書影】なぜ、いま日本の音楽が世界に届くようになったのか?構造的な変化を解説!柴那典『ヒットの復権』

2020年代の音楽シーン

2019年は、音楽シーンの主役交代の一年だった。

元号が平成から令和へと切り替わるのと呼応するように、ヒットチャートも様変わりした。次の時代を担うシンガーソングライターやバンドが上位に並び、代わりにCDセールスを軸とした前時代の「ヒットの力学」の中で頂点に立ってきたアイドルグループたちは、チャートの最前線から少しずつ後退していった。

2019年のビルボードジャパンの総合ソングチャート「Hot 100」の年間トップ10を見るとそのことがわかる。

1位 米津玄師「Lemon」
2位 あいみょん「マリーゴールド」
3位 Official髭男dism「Pretender」
4位 King Gnu「白日」
5位 米津玄師「馬と鹿」
6位 菅田将暉「まちがいさがし」
7位 Foorin「パプリカ」
8位 あいみょん「今夜このまま」
9位 DA PUMP「U.S.A.」
10位 Official髭男dism「宿命」

米津玄師、あいみょん、Official髭男dism、King Gnuと、2020年代の音楽シーンを彩る面々が上位に並ぶ。特筆すべきは、この年のトップ4全てが、後にスタジアムクラスの動員を生み出すアーティストたちの飛躍を決定づけた楽曲であることだ。

「Lemon」という分水嶺

なかでも目覚ましい存在感を見せたのが米津玄師だった。「Lemon」と「馬と鹿」の2曲、菅田将暉「まちがいさがし」とFoorin「パプリカ」という提供曲をあわせれば4曲をトップ10に送り込んでいる。

「Lemon」は2018年に続いてビルボードジャパン年間チャートでは史上初となる2年連続総合1位。異例のロングヒットだ。

ドラマ『アンナチュラル』の主題歌として書き下ろされたこの曲は、〈夢ならばどれほどよかったでしょう 未だにあなたのことを夢にみる〉という痛切なフレーズで幕を開ける。死別の喪失感と、取り戻すことのできない大切な人への思いを綴った楽曲だ。

なぜこの曲はここまでヒットしたのか。

「じいちゃんが“連れて行ってくれた”ような感覚があるんです」(『音楽ナタリー』米津玄師「Lemon」インタビュー 2018年3月13日掲載)

米津は「Lemon」を作ったときのことについて、筆者の取材に応えてこう語っている。

『アンナチュラル』は、法医学者たちが「不自然な死」を遂げた遺体の謎を究明していくストーリーだ。ドラマには愛する人の予期せぬ死に直面した人々がたびたび登場する。

「傷付いた人を優しく包み込むようなものにしてほしい」。ドラマ制作側からはそんなオーダーがあった。当初はその依頼に忠実に作り始めた。ただ、その楽曲制作の途中に米津の祖父が他界する。

「最初はドラマと自分の中間にあるもの、そこにある一番美しいものを目指して作り始めたんです。でも、そうやって自分の目の前に死が現れたとき、果たしてそれは一体どういうことなんだろうって思って。今までの自分の中での死の捉え方がゼロになった。それゆえに、また1から構築していかなければならなくなった。気が付いたらものすごく個人的な曲になったような気がします」

ものすごく個人的な曲になった

全国ツアーに楽曲制作が重なった多忙な日々の中、米津はまさしく肉親の死に直面した立場で曲を作ることになった。「個人的な曲になった」と彼は言う。

しかし、それは同時に、誰もが自分にとっての大切な人の喪失と重ね合わせることのできる切実さを持った曲になった。だからこそ、深い共感が広がったのだろう。米津はこう語っている。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

「この曲は決して傷付いた人を優しく包み込むようなものにはなってなくて、ただひたすら『あなたの死が悲しい』と歌っている。それは自分がそのとき、人を優しく包み込むような懐の広さがまったく持てなくて、アップダウンの中でしがみついて一点を見つめることに夢中だったので、だからこそ、ものすごく個人的な曲になった。

でも自分の作る音楽は『普遍的なものであってほしい』とずっと思っているし、そうやって作った自分の曲を客観的に見たときに『普遍的なものになったな』っていう意識も確かにあって。それは、じいちゃんが死んだということに対して、じいちゃんに作らせてもらった、そこに連れてってもらったのかなって感じもありますね」

インターネットが育んだ才能がJ−POPのメインストリームへ

米津は1991年、徳島県生まれ。音楽活動を始めた拠点はインターネットだった。中学や高校時代に憧れていたのはBUMP OF CHICKENやRADWIMPSなどのロックバンドだった。中学に入学するとギターを手にし、友人を誘ってバンドを結成した。高校を卒業し専門学校に入学してからも曲を作り続けていたが、バンドはなかなか上手くいかない。そんな最中に出会ったのが初音ミクだった。

2009年、彼は「ハチ」を名乗り、初音ミクを使ったオリジナル楽曲をニコニコ動画に投稿する。楽曲の人気は瞬く間に広まり、その名は当時のボーカロイドシーンに一気に知れ渡った。無名のクリエイターが創作の輪を広げていた00年代後半のボーカロイドシーンを、米津は自分の“故郷”だと語っている。

「そこは新しく生まれた遊び場で、別に将来のことも考えず、みんなでただひたすら無邪気にやってるだけの空間だった。混沌としていて、刺激的で、すごく魅力的だったんですね。そこで得たものは計り知れないし、実際に自分の音楽のキャリアはそこで始まっている。稀有な土壌だったと思います」(『Yahoo!ニュース特集』インタビュー、2017年10月30日掲載)

2020年代に入ると、YOASOBIやAdoなどボーカロイドカルチャーの中で育ったクリエイターや歌い手がJ−POPの第一線で活躍するようになる。米津玄師のブレイクは、インターネットが育んだ才能が国民的なポップスターになったという意味でも、音楽シーンの主役交代の象徴になった。

※本稿は、『ヒットの復権』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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