エース石川祐希の<原点>。バレーとバスケで悩んでいた小4のあの日。母がやっていたのでバスケ部に入ろうと思ったけれど…

さわやかな笑顔で話す石川祐希選手(写真提供:徳間書店)
パリ2024年オリンピックで<世界の頂>へ挑んだ石川祐希。彼はいかにして世界に誇る日本のエースになったのか? オリンピック出場にかけていた思いとは? そもそもどのようにしてバレーボールと出会ったのか――。石川選手の魅力に迫った『頂を目指して』から一部を抜粋して紹介します。

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まっすぐインタビューに答える石川祐希選手

バレーボールとの出会い

バレーボールとの出会いは、小学3年生のときだ。
1歳年上の姉が「バレーボールをやりたい」と言ってすでにクラブに入っていて、その練習へついていったことがきっかけだった。

もともと父は陸上競技の選手で、母はバスケットボールの選手。
どちらも実業団まで進んだ本格派だが、僕自身も運動自体が大好きだった。

子どものころは走るのも速くて、運動会の徒競走やリレーでは、ヒーローになれるタイプだった。
そして何より授業の合間の休み時間になると、校庭でドッジボールをするのが楽しみで、休み時間に入る前から、「俺がいちばん最初にボールを持って外に出るぞ」とウズウ
ズしていた。

サッカーもバスケットボールも好きだったし、バレーボールをするよりも前は少年野球のチームにも入っていた。

姉がバレーボールを始めたからといって、自分も一緒にと思うことはなかった僕に、 「やってみたら?」と声をかけてくれたのが、僕が通う愛知県岡崎市立矢作南(やはぎみなみ)小学校のバレーボール部の監督だった。

コーチは、監督の奥さん。
体育館の外にフラフープを並べて、「バレーボールのスパイクを打つときには、こうやってステップをするんだよ」と教えてくれた。

それまでスパイクなんて打ったことはなかったけれど、ステップは練習すればすぐにできるようになった。

ちょうどその日は練習試合の最中で、監督は、
「メンバーチェンジ!」と言っていきなり僕をコートに入れてくれた。

人生初のスパイク

ポーンと上がってきたボールに対して、習ったばかりのステップをして、ジャンプして打った。
すべて見様見真似だったけれど、意外と最初からうまくできた。

人生で初めてのスパイク得点を決めた僕は、1本か2本プレーしただけで終わったけれど、最初から失敗せずにできたこともあって、バレーボールに対して良い印象をもった。

本格的にバレーボール人生がスタートしたのはその翌年、小学4年生の春だった。
最初は何げなく姉のクラブで、「やってみたら」と言われて打っただけだったし、その後は体育の授業で楽しむ程度だった。

なのに、なぜバレーボールを選んだか。
答えは単純だった。
矢作南小学校は、4年生になったら全員が何かしらのクラブ活動に入らなければならなかったからだ。

いろいろな選択肢があるなか、何部に入るか。
迷ったのは、バレーボールとバスケットボールだ。

母は結婚して僕たちを産んでからも、趣味としてママさんバスケットボールのクラブに入っていた。
だから、母についてバスケットボールの練習にも何度も行っていて、バスケットボールをやってみようかなと思ったこともある。
何より楽しさを知っていた。

「将来バレーボール選手になりたい」と思ったことはなかった…

「何部に入る?」
一緒に少年野球のチームに入っていた友達に相談した。

バスケか、バレーか。
迷っていたけれど、僕たちはバレーボールを選んだ。

あのとき、なぜ、僕はバレーボールに決めたのか。
振り返ってもよく覚えていない。

でも、迷いながらも心のどこかで決めていた気がする。
なぜなら、僕はもともと何かを決めるときには「こうしたい」という意志を根っこにもっているタイプだからだ。
 

『頂を目指して』(著者:石川祐希/徳間書店)

とはいえ、1人で「こうする」と決めるには自信がないから、仲の良い子に「どうしようか?」と相談しながら、「バレーにしない?」と、自然にもっていったような気がしている。
もう1つ、僕がバレーボール部を選んだ理由があるとしたら、当時の矢作南小バレーボール部が強かったからだ。

正直にいうと、小学生のころの僕は、「将来バレーボール選手になりたい」と思ったことなど一度もなかった。

小学生の自分を振り返って思うこと…

ここぞというときの集中力には自信がある。
そして、必要だと思えば何でもやる。

その反面、本当にこれが必要かな、と思うことは積極的にやらないのも僕の性格だ。
例を挙げるならば、小学生のころの夏休みの宿題がまさにそう。

コツコツ地道に毎日これだけやる、と決めて取り組むのは苦手だった。
どちらかといえば、夏休みも終わるころになってから一気に終わらせるタイプ。

絵日記や、アサガオの観察日記など、毎日やらなければならないものはやるけれど、
計算ドリルや漢字など、毎日やらなくてもいいものはやらない。

集中してやれば終わるとわかっていたし、小学生のころから塾や公文に通っていたので、もともと計算も苦手ではない。
ちゃっかり友達に見せてもらうこともあった。

宿題だけでなく、バレーボールも同じだった。
練習はもちろんちゃんとやるけれど、やらなくてもいい、と思うことはやらない。 

たとえばバレーボールの基本技術として、始めて間もないころに教えられるオーバーハンドパスもまさにそうだった。
おでこの前に両手で三角形をつくって、膝を曲げ、腕を伸ばしながら力を前に伝えてボールを出す。

基本中の基本ではあるけれど、練習を重ねるうちに、膝を曲げることが本当に必要かな、と思うことが増えた。
むしろ、かたちばかりを気にしなくても、できることはある。

オーバーハンドパスの目的は、目指す場所にちゃんとボールを返すこと。
それならばかたちにこだわるよりも、自分がやりやすい、いちばん返しやすいかたちでやったほうがいいな、と子どものころから考えて実践してきた。

指導者によっては、「どうして膝を曲げないんだ」と怒る人もいるかもしれない。
実際僕も注意をされることもあったけれど、ある程度は自分のやり方でやってきた。

もちろん、まったく膝を曲げないというわけではなく、オーバーハンドパスをするときも少しは膝を曲げた。

自分がいちばんやりやすい、ボールを返しやすいやり方を考えて、自然にできるように練習した。

宿題をコツコツやるのは苦手だったけれど、自分が納得して取り組むバレーボールの練習を続けることは、少しも苦ではなかった。

初の全国大会という舞台

何より楽しかったのは、5年生になってからは少しずつ試合に出る機会も増えたことだ。

基本をみっちり叩き込む練習で、少しずついろいろなことができるようになるのも楽しかったけれど、その成果を発揮できる試合はさらに何倍も楽しい。

4年生のときはユニフォームをもらってベンチ入りするだけだった僕も、5年生になると前衛の真ん中、日本代表ならばミドルブロッカーと呼ばれる、当時は「センター」と呼ばれたポジションに入るようになった。

バレーボールには6人制と9人制があって、僕が小学生から始めて今も続けているのは6人制。
コート内に同時に入れるのは6人で、その中でリベロという守備専門で、交代の回 数が限られていないポジションを含めた7人がレギュラーとしてスタートする。

リベロを除く6人、ミドルブロッカー(センター)、アウトサイドヒッター(サイド)、セッターは守備位置に入る順番にサーブを打ち、時計周りに順番に回ることをバレーボール用語では「ローテーション」という。

中学校や高校、日本代表でもローテーションは当たり前で、それぞれによって強いところや弱いところがあって、どう駆け引きするかも楽しみ方の1つだ。
でも、唯一の例外が小学生だ。

順番にサーブを打つのは同じだけれど、サーブを打ったあとに必ずみんな、固定されたポジションにつく。
つまり、必ず同じポジションだけを担う。

たとえば、僕の場合は前衛の真ん中に入るセンターだったので、サーブを打ったら大急ぎで走って前衛へ。

そこでブロックに跳んだり、ボールがつながればそこからスパイクを打つのが仕事で、当時は少し高めのトスを打ったり、速いトスを打ったりするのが僕の役割だった。

初めて全国大会に出た4年生のときはベスト8まで進んだけれど、愛知県はもともとバレーボールが盛んで、僕たち以外にも強いチームはたくさんある。

愛知県大会を勝つのも簡単なことではなく、実際に5年生のときは愛知県大会の決勝で負けてしまい、全国大会に出場できなかった。

ユニフォームを着て、レギュラーとしてプレーした全国大会は、小学校6年生のときが最初で最後だった。

※本稿は『頂を目指して』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

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