伊藤比呂美「ヤマサとヒゲタ」

イラスト

(画:一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫3匹(メイ、テイラー、エリック)と暮らす日常を綴ります。今回は「ヤマサとヒゲタ」です(画:一ノ関圭)

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五年かかった仕事が終わった。『わたしのおとうさんのりゅう』という。こんなに長くかかった仕事は初めてだ。四年半、書けない書けないと悶えていた。最後の半年で書きまくった。昔読んだ児童向けの全集を古本で何セットも買い直したから、家じゅう古いなつかしい本だらけになった。やっと終わった今になっても、戻ってこられてない。

早稲田での仕事が終わった二〇二〇年頃。大学院を卒業して出版社に就職したNが来て「先生、クラスで話してくれた話を書いてください」と言った。それは、あたしが『エルマーのぼうけん』を日本で最初に読んだ子どもだという話。児童文学の翻訳の話。

学生の頼みは断らない主義だから、はいはいと書き始めた。しかし時期尚早だった。書けなくなって立ち止まった。

あたしの父は元やくざで、元特攻隊の教官で、母は元芸者だった。お祖父さんは佐渡の金鉱掘りで、お祖母さんは神がかり。最強の家族ですよ。でも書き方がわからない。

あたしに宮尾登美子や火野葦平みたいな才能があったら、フィクションでつないで小説に仕立てて、人間たちがいきいきと立ち上がり愛しあい憎みあい生きて死んでという、すごい話が書けたと思う。でもあたしにそんな才能はなく、実は書きたくもない。

詩人としては別の表現をしたい。あっさりエッセイで書いちゃったらつまらない。いわゆるエッセイって、みなさんとあたしが同じ場にいて何かを共有しているっていう親密感がある。嘘はついてない、つかれてないという信頼感もある。

違う。あたしは事実を公開したいわけじゃない。あたしが書きたいのは、ものすごくあやふやな、読んでる人が、自分がどこにいるか一瞬わからなくなっちゃうような話。嘘八百書いてるのに、ほんとの言葉だけで組み立てて、真実は絶対にはずさない話。

とりあえず、覚えている父や母の言葉をそのまま書き出してみた。そしたら箇条書きにしかならなかった。箇条書きはつまらなかった。やっぱりフィクションでつなぐという小説の手法は物語をおもしろくする。それがないと、脂肪も肉もない、骨だけの身体みたいになる。でもできないし、やりたくない。そのまま頓挫していたのだ、何年も。

あたしは、親の話を書きたいのと同じくらい、子どもの頃に読んだ本の話を書きたかった。自分が読んだものは何だったのか。それにどう影響を受けてきたのか。

本の話と親の話、別々に書けばよかったのにつなげずにはいられなかった。親の「生きる」を自分につなぐためには、本が必要だった。最初に父の声で読んでもらった、エルマー、ドリトル先生。そして「シートン動物記」に出てくるコヨーテや野ブタ、「ドリトル先生」の緑のカナリアは、女として生きるあたしのためのロールモデルだった。

そのうち、記憶っていったい何なのだろうと考え始めた。どっかにマドレーヌをお茶に浸してたべる小説があったな。あれも記憶だ。あたしの記憶。父の記憶。母の記憶。ひとりひとり違う記憶。自分の持ってる記憶が正確か正確じゃないか、はっきりしないのも記憶。はっきりしてても記憶。そこまで考えたら、何の結論も出てないのに書き始めた。記憶を持っているのはあたし。そこで立ち位置が固まったような気がした。

そんなときに知り合ったのが、やくざ専門のノンフィクション作家の鈴木智彦さんだ。鈴木さんの『サカナとヤクザ』という本にあたしの父が出てきた。終戦直後の、銚子の有名な親分の、子分の若造のちんぴらとして。そのちんぴらがあたしの父で、あたしの書く話の主人公だった。

ノンフィクション作家はすごい。どこにでも行って、何でも集めるのである。あたしは腰が重い。実地に銚子に行ったりせずに、記憶だけで書いたほうがいいんじゃないかと思ってたくらいだ。でも鈴木さんにひきずられて行ってみたら、すごかった。

昭和三〇年代にあたしが泊まっていた伯母さんの家のあった場所。そこからの光景。電車からの景色。白黒の記憶に色がついた。そしたら光の加減も思い出した。遊んだ浜辺のどっちの方向に灯台があったか。人の声。人の言葉。海辺の岩場の感触も匂いも。つるつると記憶が引っ張り出されてきた。

銚子はしょうゆの町だった。ビジネスホテルの朝食にもどこの食べ物屋にも、ヤマサとヒゲタ、しょうゆが二種類おいてあった。それで思い出した。母が使っていたのはヒゲタだったこと。その味。

ノンフィクション作家はすごい。どこでもぐいぐいと知らない人に話しかけていくのである。銚子の飯沼観音の境内の焼きそば屋で、八〇前後のおばさんが焼きそばを焼いていた。あたしと同世代の、漁師だったという男がビールを飲んでいた。その中に鈴木さんはぐいぐい入っていって、焼きそばを食べながら、おばさんや男に話しかけた。

二人の話を聞きながら、あたしは店の外を、若いときのあたしの母がすっと歩いていったようにも感じたのだ。

いろんなことを調べたけど、いちばんうれしかったのは、あたしの父が昭和二四年三月四日浅草で映画を見たというのがわかったことだ。何を見たかはわからない。でも場所と時間が特定できたら、まだ生まれてない自分が、父の隣で、暗闇の中で、じっとスクリーンをみつめていたような気がした。

母が死ぬ少し前にあたしに言った「あんたがいて楽しかった」。あれを聞いたときあたしは、長年の母の呪いが解けたような気がしたのだが、その言葉をどうして母が言葉にして出せたかということも理解できた。

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