外国人選手への「ナイスボギー!」に憤りの涙…激痛のヘルニア手術… “世界のアヤコ”米女王へ奇跡の3年間 【小川朗・後世に残したい記憶】

米女子ツアーにおける日本人選手のパイオニア、岡本綾子。1987年に米国人以外で初めて賞金女王の戴冠を果たしました。しかし、その座に就くまでには壮絶な苦難とそれを乗り越える奇跡のような日々がありました。

「ナイスボギー事件」と「パパイアインジェクション」

 今シーズンは15人もの日本人選手が米女子ツアーに挑んでいますが、パイオニアとして真っ先に思い浮かぶのは、1987年に米国人以外で初めて賞金女王の戴冠を果たした岡本綾子です。しかし、その座に就くまでには壮絶な苦難とそれを乗り越える奇跡のような日々がありました。その3年間をつぶさに見届けた小川朗氏が振り返ります。

米ツアーの選手仲間に担がれ、賞金女王獲得を称えられる岡本綾子 写真提供:東京スポーツ新聞社

米ツアーの選手仲間に担がれ、賞金女王獲得を称えられる岡本綾子 写真提供:東京スポーツ新聞社

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 グリーン上で岡本綾子の肩が震えていました。その目からは、ハラハラと涙がこぼれ落ちています。

 1984年11月4日。広島カンツリー倶楽部 八本松コースでは、米女子ツアー最終戦「マツダジャパンクラシック」の最終日が行われていました。地元・広島出身の岡本はこの年3勝を挙げ、米国人以外で初の賞金女王になるチャンスを残していました。

 タイトル争いを引っ張るベッツィ・キング(米国)が8位以下、パティ・シーハン(米国)が3位以下の条件付きながら、岡本が優勝すれば賞金女王。その期待から、最終日は当時史上最多記録となる1万4541人の観衆が詰めかけ、そのほとんどが岡本とジャン・スチーブンソン(豪州)、ホリス・ステーシー(米国)が回る最終組に付きました。

 注目の1戦も終盤にさしかかった14番ホールのグリーン上。のちに「ナイスボギー事件」と語り継がれる問題のシーンが起きます。

 優勝争いをしていたスチーブンソンがパーパットを外した瞬間、ギャラリーから「ナイスボギー!」の声が飛びました。“ひいきの引き倒し”とはこのことで、この言葉に誰よりも動揺したのが岡本でした。「何でそういうことを言うのですか、一生懸命やっているのに。日本人として恥ずかしくないのですか」と叫んだ後は、冒頭のシーンとなってしまいます。

 筆者は当時、スポーツ紙で『綾子のメモリアル』という連載を担当していたため、直後にこの時の心境を本人に聞いています。

「あの時は1番で私が先にボギーでホールアウトした後、ギャラリーの大半が次の2番へ歩き出しました。まだスチーブンソンとステーシーがプレーを残しているのにですよ。私は思わず口に両手をあてて(メガホンのようにして)『止まってください』と大声でお願いしました。そうしたら立ち止まってくれたので『これで分かってくれたかな』と思ったのです。でもそれもつかの間、ステーシーがボギーを叩いたら笑いが漏れたのです。外人選手がミスをすると冷やかし半分の声をあげる。これには情けなくなり一日中、このことばかり考えてプレーしていました」

 プレー中に泣き出した岡本を、スチーブンソンとステーシーが慰める展開に。「あのような状態で仮に優勝して賞金女王になったとしても、全然うれしくありません」とまで語っていました。

 これではプレーに集中できるわけもありません。結局シーハンが17位、キングが18位と、“自力”での逆転女王がお膳立てされながら、岡本が2打差の2位に終わったことで(吉川なよ子が優勝)、キングが賞金女王を獲得することになります。

1984年「マツダジャパンクラシック」最終日の表彰式。前列右端が優勝した吉川なよ子、右から2人目が2位に終わった岡本。ナイスボギー事件のショックから立ち直れていない様子だった 写真提供:東京スポーツ新聞社

1984年「マツダジャパンクラシック」最終日の表彰式。前列右端が優勝した吉川なよ子、右から2人目が2位に終わった岡本。ナイスボギー事件のショックから立ち直れていない様子だった 写真提供:東京スポーツ新聞社

 実はこのシーズン、好成績を重ねる一方で岡本はゴルフ人生で最大のピンチに直面しつつありました。腰痛がひどさを増し、痛み止めを飲みながらも眠れない日もあり、年が明けて85年のシーズンに入るとダイニングチェアから立ち上がることすらできなくなります。

 82年にアリゾナ州ツーソンでの「アリゾナ・コパークラシック」で米ツアー初優勝を挙げたシーズンは、日米を往復して41試合も出場。翌83、84年も33試合ずつ出場していました。オーバーワークが腰に来たということを本人も認めていましたが、85年7月の「デュ・モーリエクラシック」(カナダ)でついに出場を断念せざるを得なくなりました。

 全米オープンチャンピオンでもあるファジー・ゼラーの紹介でニューヨークの特別外科病院に検査入院。複数の医療機関で椎間板ヘルニアとの診断を受け、当時の最先端である「パパイアインジェクション」(腰椎にパパイア酵素を注入する治療法)を選択することになります。

 親友であるパティ・リゾの母の主治医だった、ジャクソン記念病院(フロリダ州マイアミ)のマーク・ブラウン医師の治療を受けたのが8月13日。全身麻酔で1時間ほど寝ていたものの、残り5分で目が覚めてしまい、激痛のあまり泣きじゃくりながら痛みをこらえていたと復帰後に明かしています。

メジャーに一番近づいた全米女子オープン

「ゴルフがダメなら、大型免許を取って長距離トラックの運転手をしようか」とまで考えたと言いますが、リゾ一家のサポートを受けながら治療を続けると、1週間後には犬と一緒に散歩をできるまでに。2カ月後の10月には帰国して、12月には東京都港区にあった練習場、芝ゴルフ場で5カ月ぶりにボールを打ちます。

 翌86年、岡本は開幕戦の「マツダクラシック」(マツダジャパンクラシックとは別に開催されていた米本土での試合)から復帰してきました。初戦16位と上出来のスタートを演じると、翌週、治療を受けたマイアミに戻っての2戦目「エリザベス・アーデンクラシック」で、とんでもないことを成し遂げました。1打差の単独首位で最終日を迎え、前半3つスコアを伸ばすと、あっさり優勝を飾ってしまったのです。

 この年は9月にオレゴン州ポートランドで行われた「セルラーワン・ピンゴルフ選手権」でも優勝しています。筆者は2試合とも取材する機会に恵まれ、シーズン2勝目の最終日前夜には岡本と飲食を共にしていますが、酒量もすっかり戻り、最終日は「二日酔いだわ」と言いながら6アンダーで回って逆転優勝。手術前よりもショートゲームが冴え、秋に帰国すると「ニチレイレディス」(当時はマツダジャパンクラシック同様、米LPGAツアー共催競技)でも優勝。国内でも2年ぶりの復活Vとなりました。

 選手生命の危機を乗り越えた岡本は、87年には円熟味を増し、毎週のように優勝に絡みます。4月の「京セラ・イナモリクラシック」(カリフォルニア州)、5月の「クライスラー・プリムスクラシック」(ニュージャージー州)、6月の「レディー・キーストンオープン」(ペンシルべニア州)と、前半戦のみで3勝。7月中旬に開催されたメジャーの「デュ・モーリエ」では6打差の首位で最終日に突入しながら、突然の体調不良にも見舞われ6アンダーで回った新人のジョディ・ローゼンタール(米国・後に結婚してアンシュルツ)に大逆転負けを喫しました。

 さらに7月下旬の「全米女子オープン」。この試合は「自分でも最もメジャーの優勝に近づいた試合」と振り返る戦いでした。最終ラウンドのホールアウト後、唇を噛んで悔やしがったのが10番バーディーで再び1打リードした後の13番。砲台グリーンのパー4で、岡本は上から1.5メートル、絶好のバーディーチャンスにつけました。

 しかし20センチほど右に切れると読んだそのライン上に、当時のルールでは修復できなかったスパイクマークがあったのです。

 ラインに乗せて流し込むか、強めに打つか。迷った挙句「障害物があっても勝つなら絶対入る!」と念じてライン通りに打ちましたが、無情にもボールはスパイクマークに蹴られてカップの左へ。返しも入らず、3パットのボギーとなってしまいます。結局、試合は3アンダーで並んだ24歳のローラ・デービース(イングランド)、36歳の岡本、48歳のジョアン・カーナー(米国)という、奇しくも日本の干支でいう兎年生まれの年女3人による18ホールストロークプレーのプレーオフへともつれ込みました。

 最後の18ホールはデービースが若さとパワーにまかせて優勝。悪天候もあって6日間に及ぶ長い戦いは火曜日に終わりました。勝負を決めたパットは前述した最終ラウンドの13番、1.5メートルのバーディーパット。「あれが勝負を分けた」と岡本本人も振り返っています。

親友のパティ・リゾらツアーの戦友たちが岡本を担ぎ上げて祝福

 あまりに苦い敗戦とは言えますが、悪いことばかりではありません。8月の「ネッスル(現表記ネスレ)世界選手権」(ジョージア州)でシーズン4勝目。11月の最終戦「マツダジャパンクラシック」(埼玉・武蔵丘GC)に、3年越しの賞金女王が懸かることになるのです。

 大会前、ベッツィ・キングの賞金は44万2010ドル。2位につけていた岡本は43万3659ドル。岡本が優勝なら無条件、2位でもキングが3位以下なら女王になれる。キングが予選落ちなら8位で逆転できるという状況でした。

 初日を2位タイの好スタート。2日目は森口祐子に5打離されたものの、日陰温子と並んで2位タイで最終日へ。3年前も女王を争ったキングは10位と苦しんでいました。岡本が2位をキープできれば、キングは3位以上が絶対条件。最終戦・マツダジャパンでの再対決は、岡本が有利な立場に立って最終18ホールに臨むこととなりました。

 3年前の広島を1176人上回るギャラリー、1万5717人のほとんどが岡本の組を取り巻いていました。この日の朝、岡本は初めてと言っていいほどのプレッシャーに見舞われます。「トイレで手の震えが止まらなかった」という重圧は、1番のティーアップ時にもやってきます。手が震え、ティーにボールが乗せられない状況を経験しながらも、ティーショットを放つと「スーッと震えが消えた」と告白しています。

 そこからは、悔しい敗戦を喫した84年のマツダジャパン最終日とはすべてが違っていました。安定したゴルフで18番までこぎつけ、最後は40センチのパーパットを決めてこの日のスコアは2アンダーの70。通算7アンダーで2位に食い込みました。一方のキングは追い上げたものの4位とあと一歩届かず。賞金女王の座は岡本に渡りました。

 賞金女王のタイトルが、初めて米国以外の選手に渡った瞬間でもありました。18番グリーンサイドでは、親友のリゾを始めジュリ・インクスター、ジェーン・ゲディス、バル・スキナーらが岡本を取り囲み、騎馬戦のように岡本を担ぎ上げて祝福。大観衆の前で、感動的な光景が展開されました(写真)。

 悔し涙をこぼした「ナイスボギー事件」の日曜日から、笑顔の日曜日まで3年と4日。1099日がたっていました。

 実は大会の2日目、筆者は埼玉の会場を離れ、和歌山の白浜ゴルフ倶楽部との間を往復し、最終日の取材に復帰しました。岡本の所属先である大和紡績のコンペがあり、有延悟(ありのべ・さとる)社長(当時)にどうしてもコメントをもらう必要があったからです。

「もし岡本選手が賞金女王になった場合、この先、終身契約を検討されていると聞いたのですが」と尋ねると、有延社長からは即座に答えが返ってきました。「そうですね。岡本選手とのおつきあいは半永久的に続けていくつもりです」。

 その言葉に嘘はなく、両者の良好な関係は今も続いているそうです。

取材・文/小川朗
日本ゴルフジャーナリスト協会会長。東京スポーツ新聞社「世界一速いゴルフ速報」の海外特派員として男女メジャーなど通算300試合以上を取材。同社で運動部長、文化部長、広告局長を歴任後独立。東京運動記者クラブ会友。新聞、雑誌、ネットメディアに幅広く寄稿。(一社)終活カウンセラー協会の終活認定講師、終活ジャーナリストとしての顔も持つ。日本自殺予防学会会員。(株)清流舎代表取締役。

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